「名は体を表す」といわれる。
明和電機が提唱する「ツクバ・ミュージック」3原則 (注1) の一つ「バカバカしさ」は、たとえば関西弁の相槌に由来する「放電魚(ほうでんな)」や、東南アジアの甘食「ナタ・デ・ココ」をもじった「魚竪琴(なたでごと)」といった楽器の名称に、端的に表れている。
無論、それらを用いたステージ・パフォーマンスの「バカバカしさ」も、相当なものだ。
連打される金属や木材による過激な爆音サウンドだけを取り出せば、ヘヴィ・メタルやインダストリアル・ノイズにも近い響きでありながら、演奏されるのはポール・モーリアのムード音楽やフォークダンス『マイムマイム』といった、奇妙にのどかな曲目。
そこに足踏みオルガンや鍵盤ハーモニカといった教育楽器の素朴な音色が加わり、「大人の学芸会」ないし「町工場の慰安旅行の夜の宴会芸」を想起させる狂躁感と、何もそこまでやらんでもと苦笑いせざるをえないオーバー・スペックな「やりすぎ」感が、不条理な笑いを観客に強制する。 このように賑々しい表面的イメージや、3原則のもう一つ「スピーカーを使わない」といったマニフェストのせいか、明和電機の音楽パフォーマンスは、珍奇な楽器=機械を陳列し演奏してみせるだけの、即物的かつ喜劇的な演芸と思われがちだ。
しかし見方を変えれば、明和電機が行っているのは、音楽を抽象的な記号に変換したり、抽象的な記号から音楽を取り出したりするプロセス、つまり今日コンピュータや電子テクノロジーを用いた音楽において無意識・無自覚に行われているプロセスを、目にみえる機械の挙動としてさらけ出すデモンストレーションでもある。 手で叩けば鳴るはずの音源をいったん電流のオン/オフに変換し、わざわざ遠くに配置された楽器まで電線で送ってから、ノッカー(電磁石による打撃装置)でそれを叩かせる。
こうしたツクバ・ミュージック特有の回りくどさは、見た目のバカバカしさと裏腹に、実のところ、演奏と発音という物理的な因果関係を、情報のエンコード/デコード(圧縮/復元)プロセスのアナロジーとして可視化するための、確信犯的な演出なのだ。
3原則の残り一つである「100ボルト電流を使う」という宣言にしても、我々がふだん音楽や通信で無自覚に使っているMIDIやTCPのような「見えないプロトコル」を、わかりやすい家庭用電気にたとえることで「見える」ようにする意味がこめられている。
実際、明和電機のステージでは漏電や感電や引火といった事故が頻繁に起こり、観客は否応なく「電気」の存在そのものを意識せざるをえない。 明和電機代表取締役社長・土佐信道は、かつて筆者との対談で「故障したりトラブルが起きると、むしろ嬉しくなる」と語った。通常は回避すべき機械の故障や動作不良、あるいは演奏ミスなどの人災までもが、明和電機のむしろ望むところなのだ。
このことはただちに、初期テクノポップ音楽における「ヘタウマ」 (注2) の積極的な導入を思い出させる。
評論家の椹木野衣は、たとえば「ディーヴォ」のような生演奏バンドにおけるアナログな「テクノ感覚」を、技術の意図的な退化による一種の批評行為と考え、次のように語っている。
「新しい技術革新が同時に新しい事故の発明でもあることは、飛行機の発明が墜落事故を生み出し、原子力発電所の建設が放射能事故を生み出したことを考えてみれば、たちどころにあきらかになる。事故が起きたときはじめて、わたしたちはその技術がいかに高度な次元のあやうい達成 — 場合によっては綱渡り —であったかを知ることができる」 (注3)
この文章は、そっくりそのままツクバ・ミュージックにあてはめることができる。
面白おかしいステージでの身振りとは裏腹に、明和電機がパフォーマンスを通じて目論んでいるのは、今日の生活文化と電子技術の「高度な次元のあやうい達成」を明るみに引きずり出し、ツクバ楽器という新しい機械が確実に起こす「新しい事故」の発明によって、その「綱渡り」ぶりをあからさまに見せつけることにほかならない。
注1. ツクバ・ミュージック3原則
1.100 ボルト電流を使う。 2. 発音するのにスピーカーを使わない 3. 演奏方法がバカバカしい。
注2. ヘタウマ
1970〜80年代に流行した、あえて技術的な完成度の低さを個性とする表現手法。
注3. 椹木野衣『テクノデリック ― 鏡でいっぱいの世界』集英社, 1996. p.263
(明和電機 DVD『明和電機のナンセンス楽器』ライナーノート. R and C, 2005. より. 全面的に改稿)